「青空アルコール」  陽輔

 咲坂公園の樫の木の下で、水口檸檬は缶ビールを飲み、くしゃくしゃのソフトケースからセブンスターの煙草を取り出した。
 空は雲一つない青空。わずかに残り糟のような雲が浮かんでいるが、雲一つ無いという事にしておこうと檸檬は思った。それくらいに良い気分だったのだ。
 良い気分だと思い込みたかったのだ。
 服装はアウトレットの短めのジーンズと、オレンジのチューブトップ。柔らかな春の風が吹くたびに檸檬の茶色の髪の毛が、さらさらと宙に泳ぐ。
「おぉい! おせぇぞ! 七記!」
 そこに、カーゴパンツに、オレンジのTシャツの姿の小柄な少年が近づいていく。七記と呼ばれた少年は檸檬の前にしゃがみ込む。
「ご、ごめん。でも……僕の家から、この公園までは一時間くらい掛かるし。」
「言い訳か! 言い訳をするのあ!?」
 もはや檸檬は呂律が回っていない。
「あー、お酒なんて飲んで……高校生でしょ檸檬」 
「あぁああん? 誰のせいで酒飲んでると思ってんやよ!?」
「酔いすぎだよ……」
「酔ってねぇよ! 全然酔ってねぇ! つうか酔った事ねぇよ!」
「……」
 七記は、顔をしかめて、どうしたら良いものかと逡巡する仕草を見せる。檸檬はそんな幼なじみの、何処か情けない姿を見てうんざりする。そしてまた、ヱビスビールを煽る。
 喉を通過する炭酸。もたれかかる木の肌。そして、幼なじみであり初恋である人、新島七記を見つめる。
「っていうか檸檬……学校さぼって、こんな所でお酒なんて飲んで……、叔母さん心配してたよ」
 七記が眉をハの字にして、そんな事を言う。そんな言葉聞きたくはないのだ。
 だいたいが一人で、こんな場所でお酒を飲んでいる原因は七記にあるのだ。
「うっさい! あんた私が心配なんじゃなくて、心配してるお母さんが心配な癖に!」
「……二人とも心配だよ」
 七記は嘘を付かない。言わない事はあるけれど、嘘を彼は付かないのだ。
 だからこそ、『二人とも心配だよ』、その言葉が、昨日彼の部屋で見つけてしまった事実を裏付けていくのだ。
 檸檬は七記が自分に、一緒に過ごしてきた十五年という月日で、少なからず好意を持ってくれていると信じていた。そしてそれ以上に檸檬は七記に恋をしていた。
 しかし檸檬はあまりに近すぎる関係のため、七記に告白する事をためらっていた。そう、あまりに近すぎ、依存しすぎてしまっていたために、関係を変える一言を放つ事が出来なかったのだ。
 だから昨日、彼の部屋に遊びにいき、彼の日記帳を盗み見た。
 そこにあったのは、彼の、たくさんの恋の言葉だったのだ。しかし、それは今年三十五になる檸檬の母に対する恋心だったのだ。
『今日も檸檬の家に遊びに行った。蜜柑さんは僕ににっこりと微笑んでくれた。彼女が作った手作りのサンドイッチを二人で食べた。となりで微笑む蜜柑さん。ああ、どうやったら、この気持ちに整理を付ける事が出来るんだろう。これじゃあ、檸檬を利用して彼女に近づいてるみたいじゃないか! 一体僕は何をやってるんだ……』
 こんな文章が何年分も、書き綴られているようだった。

――なんじゃそりゃ。

 七記の部屋の、勉強机の上には檸檬と母の蜜柑、七記が映った写真立てが飾ってある。今までは、その写真立てが二人の繋がりの太さを感じ喜んでいた。
 それすらもまるで、滑稽ではないか。
 檸檬は、七記の部屋から飛び出すと、自分の部屋でありったけのお金と服をナイキのスポーツバッグに詰め込むと生まれて初めての家出をした。

「ねぇ、檸檬、おうちに帰ろうよ。もう泊めてもらう友達の家もないんでしょ。一体何があったのさ」
「うーるさいわね! あだしには帰る家なんて無いのよぉ! 放浪かもめなのよ!」
「でも、僕にメールをくれたって事は、何か僕に言いたかったんでしょ?」
「ないもん! ないもの!」
 七記は、疲れた顔をして、公園の向こうに目をやった。その目の先には、見つめる物なんてなく、ただ檸檬から顔を逸らしているだけだと判った。
 檸檬は、働かない頭ながらに、ただ七記を困らせて居る事が、なんだか悲しくなってしまった。すると七記は凛とした表情で、檸檬の顔を覗き込んだ。
「もしかしてさ、檸檬……見た? 僕の日記」
 冷めて、覚めていく。冷や水を浴びせられるとはこの事だ。
「な、なーんのことかしらーん」
 うまく誤魔化そうとしたのに、それにしては檸檬は酷い酔っぱらいだった。樫の木の側に転がった数缶が滑稽だった。
「……檸檬……そっか……見たんだ」
「に、にににに日記なんて付けてたんだね! は、ははははは初めて知ったよ! 七記さんは流石にマメですなななな」
「もう、良いから……怒ってないから……丁度僕の部屋を飛び出した後に、家出したって聞いたから……」
 それは半分カマを掛ける行為だったのだろう。それに檸檬は喜んで突っ込んで転んでしまった。
「……ごめんなさい」
 その顔があまりにも悲しそうだったから、檸檬は胸が大きな手で捕まれたような気持ちになった。何をやっているのだろう自分は。そんな風に思った。
「そ。僕、蜜柑さんが好きなんだよ。檸檬
「……」
「あと……檸檬が僕の事を好きだって事も知ってた。いや、知ってたっていうより、蜜柑さんが前に言ってたんだ。多分、そうなんじゃないかなって」
「……あ、あんたなんて、べ、別に好きじゃないもん……」
「……じゃあ、どうして家出なんてしたの」
 檸檬は逡巡し、そして、何度か口をぱくぱくと空気を食べるみたいに動かした。
 そして、笑顔で七記が待っていてくれたので、ようやく喉から声になった。
「……はい、す、すきです」
 檸檬は顔を真っ赤にしてしまった。あまりにも七記の声が優しくて、そして、まるで告白では無いようにあっさりと薄情してしまった。それはまるで、母に咎められていた悪事を謝罪するように。
 そして、あまりにも七記の声が、表情が、すべてが本当に今好きだと思ったからだ。
「ほんとさ、僕も思うんだよ。僕は檸檬の事を好きになれたら良かったのにって」
「……」
「しかも、檸檬のお母さんに恋するなんてさ。叶わないって決まり切ってるのに」
「……」
 いつの間にか檸檬は「うえーん」と声を漏らした。いつの間にか泣いていたのだ。そして飲み込んでいったアルコールを全て目から出してしまいそうな程涙が溢れてきた。
檸檬……」
 抱き寄せようとしてくれた七記の手を払った。
「抱きしめたい人が違う人なのに! いらないもん! そんな優しい手!」
 七記は、悲しそうな顔をすると、すぐに、八の字だった眉をまっすぐにして、私の側にあった缶ビールを手に持って一気に飲み込んだ。
「うえーん」
 私達は抱き合いもせず、言葉もなく涙を流した。
 まるで、小さい頃二人で悪さをして叱られた時のように。
 どうしようもないのだ。
 どうしようもなかった。
 そして、涙に似合わない青空だった。